感受性、という言葉を口にするとき、私たちは何を指しているのだろう。
辞書を引けば「外界の刺激を感じ取る心の働き」と書いてある。けれど、それだけでは何かが足りない。同じ夕焼けを見ても、立ち止まる人と通り過ぎる人がいる。同じ言葉を聞いても、傷つく人と気にもとめない人がいる。この差はどこから来るのだろう。
そういえば、と思う。同じ映画を観ても、深く心を揺さぶられる時と、最後まで何も入ってこない時がある。同じ空、同じ月を見上げても、息を呑むほど美しいと思う夜と、ただの空として通り過ぎてしまう夜がある。対象は変わっていない。変わっているのは、こちら側だ。
だとすれば、感受性は固定された性質ではなく、その時々の自分の状態なのかもしれない。心に余白がある時、世界はよく沁みてくる。予定や心配事で頭がいっぱいの時、月はただの月になる。感受性は、たぶん器のようなものだ。器が空いていれば、世界はそこに流れ込んでくる。何かでいっぱいになっていれば、どんな美しいものも入る場所がない。
ここで思い出すのは、茨木のり子の詩のことだ。「ぱさぱさに乾いてゆく心を/ひとのせいにはするな」。感受性が鈍ることを、時代や他人や環境のせいにするな、と。「自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」——あの突き放した最後の一行。
この詩に初めて触れたのは、たしか中学生の頃だった。あの時は、感受性という言葉の意味さえよく分かっていなかった。感受性が強い、というのは「すぐ泣くこと」くらいの意味だと思っていた。だから茨木のり子の叱責も、自分には関係のない大人の話に聞こえていた。
人生を半分ほど過ぎて、ようやく少し分かってきた気がする。
感受性は、涙もろさのことではなかった。世界の細部に気づける力のことだった。風の匂いが少し変わったこと。誰かが言葉を選んでくれたこと。帰り道の空が、今日だけの色をしていること。そういう、放っておけば素通りしてしまう小さなことに、ちゃんと立ち止まれること。
そういえば、まだ小さかった子どもと歩いていた時のこと。急に雨が降り出して、傘を広げようとした私の隣で、子どもがふいに言った。「雨の匂いがするね」と。
その一言が、なぜか今でも忘れられない。私は雨を「降ってきた、面倒だな」としか思っていなかった。けれど子どもは、雨が降る前の、あの土と空気が混ざったような匂いをちゃんと感じ取っていた。同じ場所に立っていたのに、子どもの世界の方が、ずっと豊かだった。
あの時、嬉しかったのだと思う。我が子のことが、というよりも——人は本来、こんなふうに世界を感じる力を持って生まれてくるのだ、ということが。
そして気づく。感受性が豊かな方が、人生は単純に楽しい、ということに。自然の美しさにハッとする。誰かの優しさに胸が熱くなる。何でもない日が、何でもない日のままで愛おしくなる。同じ一日を生きていても、受け取れるものの量がまるで違う。
中学生の私には見えなかったけれど、茨木のり子が「守れ」と言ったのは、たぶんこのことだった。感受性は、強い人の特権ではなく、人生を豊かに味わうための、誰もが手入れできる力なのだ。
そして、私が感受性を守るためにしていることは、早起きして、まだ車もまばらな道を散歩することだ。薄暗い朝の光の中を歩いていると、季節がゆっくりと移ろっていることに気づく。先週まで蕾だった木が、今朝はもう咲き始めている。空気の匂いが、昨日とは少し違う。鳥の声の種類が変わっている。日々の中ではうっかり見落としてしまう小さな変化が、静かな朝の道にはちゃんと並んでいる。
あの日の子どものように、雨の匂いに気づける自分でいたい。誰にも邪魔されない時間に、世界とまっすぐ向き合うこと。それが、私にとって感受性に水をやる時間なのだと思う。
朝の道を歩きながら、今日もまだ、自分の感受性は乾いていないと、静かに確かめている。


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